誰もいない空家で池の水が静かに波打っていた。
雑草が生い茂り、どこからか虫の声も聞こえてくる。
新一は荒れ果てた庭をゆっくりと歩き、池の前で足を止めた。
「…どれだけ栄華を誇ろうと、いつかは終りがくるものだな」
もともと、この荒れ果てた家もとある貴族のものだった。しかし、私利私欲に走り最後は罪を擦り付けられ流罪になったと聞いた。それからこの家には誰も近づくことがなくなったと…。
しかし、今は都合がいい。
ふっと自嘲すると袖から笛を取り出した。
古い笛。新一が父親からもらったものだった。周りの人間はもっといいものを…と他のを与えようとするが、新一にはこれで充分だった。何もいいものだけがいい音を奏でるのではないから。
そっと口元にあてて音を奏でた。
重厚な音が流れるように紡がれ、気づけば虫の声も笛の音に聞き入っているかのように静かになった。
時折思い出したかのように池の水が波打つが、まるですべてのものが笛の音に魅了されているかのようだ。
こうして一人、笛を吹いているときが一番楽になれる。
周りの喧騒から離れ、煩わしいことから解放される。この瞬間が好きだった。
一曲吹き終わり、少し息をついた。
「ふぅん…人間にしてはいい音だ」
新一は突然背後から聞こえた声に慌てて振り返った。人の気配はなかったはずなのに…。
「人間でもこんな奴はまだいたんだな」
にやりと笑みを湛えて木の上に座っている青年が新一を見下ろしていた。その背には白い大きな翼。
「妖(あやかし)…?」
新一が驚いたように目を瞠ったのをみてさらに笑みを濃くし、ふわっと音もなく降りてきた。
翼が生えていること以外は普通の人間に見える。どこかで見たような顔立ちに少しクセのついた髪、瞳の色は深く、暗い青…。
「…名は?」
妖は相変わらず笑みを張り付けたまま、少し目を細めていた。まるで何かを見透かすように。
「…新一」
言ったあとに、なぜ馬鹿正直に答えているのかと少し戸惑った。だから、目の前の妖が一瞬だけ目を瞠ったのを見逃してしまったのだ。
「…そ…っか。いい名だ」
目を伏せて何かを考えているようだった。
「笛は…いつから吹いていたんだ?」
「…?気づいたら…」
そう、いつからなんて覚えていない。気づいたら笛を手にしていたのだ。
まぁ、そのお陰で宴やなんやらでお呼びがかかるようになってしまったのだが…。
「気ままに吹くのが好きなのに…」
「?自由に吹けないのか?」
「これだけじゃない。俺は…」
…………ずっと縛られて生きているから…。
「……ふぅん…」
俯いて地面を見つめた。こいつみたいに翼があったら…どこかへ行けるのかな。
そんなことを考えているとすっと影が差した。
視線を上げるとすぐ目の前に妖が立っていた。
背丈も同じくらいなのか…。
そんなことを思っていると妖の手が伸びてきて新一の顎を掴んだ。
「え…?」
ちゅっと軽い音をたてて唇に何かが触れた。
「もし、俺が必要になったら笛を吹け。そうしたらどこへでも行ってやるから」
優しげに微笑んだあと、妖はふわっと翼をはためかした。
「もう…行くのか?」
「あぁ」
「そうか…」
白い羽が一枚、風に乗って飛んできた。
それに目を奪われていると妖の体はすでに宙に浮いていて、再び木の上に登っていた。
「……お前の、名は?」
妖の顔が一瞬だけ曇ったように見えた。まるで自分の向こうに何かを見ているかのように。
「…そうだな……キッド。と呼んでくれればいい」
「キッド…」
少しだけ違和感を感じた。聞いたことのない名だからだろうか?
でも、それは彼の本当の名前ではないのだろう。妖が名を教えることは禁じられていると聞いたことがある…。本当の名を教える。それは使役されることを許すことになるから。
そんな新一の考えを見破ったかのようにキッドは艶やかな笑みを浮かべた。
「また、会いにくるよ。新一」
バサリと白い羽が視界を覆ったと思ったら、もうキッドの姿はどこにもなかった。
「キッド……」
触れられた唇にそっと指をあてて、新一はぼんやりと空を見上げた。
最後に残された一枚の羽が空から舞い降りてきた。
それを手に取り、新一は小さくほほ笑んだ。
「また…会おう……キッド」
そっと紡がれた言葉は風に流され、消えていった。
続く
***
序章?まずは出会いから…。