コトリ…と小さな物音に沈んでいた意識を少し浮上させた。
心地の良い風が部屋の中に入ってくるのに気付き、薄っすらと目を開けた。

泥棒か…?


しかし、 目の端で捕らえたのは白い物。


「名探偵…」

あぁ、キッドか。

そう思って肩の力を抜いた。泥棒には違いないが、彼が自分に危害を加えることはないことを知っていたから。
しっかりと目を開けて起き上がろうとした。しかしそれは叶わず、金縛りにあったかのように体が硬直してしまった。

「名探偵…名探偵…」

キッドが 何度も何度も呼びかける。いつもの張りのある声ではない。まるで幼子のようだと思った。
返事をしたいのに体が動かない。喉が張り付いて声も出せない。耳だけが動いてキッドの言葉を捉える。

「…もう、お会いすることはできません…名探偵…」

…え?

今なんて…


「今まで楽しかったですよ。さようなら、私の名探偵…どうか、お元気で…」

キッド…?

ふわりと空気が揺れた。
そう思うと同時に温かいものがそっと唇に触れた。それがキッドの唇だと気付いた時にはすでに離れていた。

「さようなら…」













「キッド………!!」

カバっと体を起こした時には既に怪盗の姿はどこにもなかった。まるでさっきのことは夢であったかのように。
ただ、開け放たれた窓だけが怪盗がここにいたという証拠のようにカーテンを揺らしていた。

「キッド…」

そして、 その日以来怪盗キッドは姿を見せることはなくなった…………。





















「空の下で」



















雲一つない空の下で気だるげに歩みを進める青年が一人。

「暑い…」

雨の降る気配すらない。蝉がけたたましく鳴いている。

「さっさと涼しい部屋で本読みてぇな…」

ブツブツと悪態を吐きながら眉間に皺を寄せて空を睨みつける。とてもじゃないが、彼の信仰者には見せられないだろう。といっても彼自身は信仰者の存在すら知らないのだが。
その彼の名前は工藤新一。
高校生探偵として名を馳せたが、今は大学生。今でも警察に力は貸しているが、それが表沙汰になることはない。マスコミにも緘口令が引いてあるからだ。

「工藤!」


ふと後ろから呼び止められ俺は足を止めた。

「?」

振り返ると同じゼミの人間。何度か話したことはあるが、そこまで親しいという関係でもなかったと思うが…。

「ちょっと頼みがあるんだけど…」
「んだよ?」
「あのさ、今日キッドの現場行かないか?」

「は?」
「だからさ、工藤も知ってるだろう?今日の10時、新宿のホテルで公開される宝石を盗み出すってキッドの予告状来てるって!でさ、後でゼミの奴らと見物に行くんだけど、工藤が来てくれれば…」

あぁ、そういうことか。確かにあの予告状はチラッとだけ見たが、あれは多分…

「悪いな。今日は他の用事が入ってるんだ」
「そっか…それなら仕方ないよな。じゃあ…またな工藤」

とぼとぼと来た道を引き返す後姿を眺めてぼんやりと空に目を向けた。




怪盗キッド。

夢だったのか、現実だったのか分からないが、あいつが俺の前に姿を見せたあの日以来、俺があいつを忘れた日はなかった。

生きているのか、もうこの世にはいないのか、それすらもわららない。あの日の現場であいつは警部達にも別れを告げたらしい。手にした宝石を月に掲げた後に。
おそらくその後だろう、俺の家を訪ねたのは。
あの時、俺が起きていれば何かが変わっだろうか?1人で戦うあいつを守ることができたかもしれないのに…。

その後もあいつに関する捜査は続き、ある時1つの大きな組織が崩壊した。

警察はあいつとその組織との関係に気づいてはいないようだったが、おそらくその組織を潰したのはあいつだ。最後にあいつが盗みだした宝石が何か関係しているのかもしれない。

それでもあいつは俺の前に姿を見せることはなかった。


まだ裏世界の人間に狙われてるかもしれないから、あいつの正体を探ることはしなかった。きっと探せば見つかっただろう。でもそれをしてはいけない気がしたのだ。

でも本当は…一度でいいから、あいつの無事を確かめたい…。

「…今日の予告も偽物だろうな」

何しろ暗号が簡単すぎだ。
まぁ、確かにあいつは毎回毎回暗号を使って予告していたわけではないから暗号のつもりではないのかもしれない。それでも仮にも暗号の形をしているのにあの程度ではとてもあいつとは言えない。
それに、あいつと偽る奴はあいつが消えてから何人も出てきた。
それでもあいつとは違う。そいつらは全て中森警部に捕まったのだ。

「ったく、どこに行ったんだよ。あいつは…」

あれからもう2年。


あいつは一体今どこにいるのだろう……?










****











「工藤!」

彼を呼びとめる声に思わず足が止まった。

声がした方へ振り返るとそこにいたのは工藤新一。と彼に話しかける友人。

チクリと胸が痛んだ。
これは嫉妬なのかもしれない。彼に親しげに話しかけることができるあの友人に、彼の隣に立つ事が出来ない自分があまりにも情けなくて、自分勝手な醜い嫉妬なのだ。

俺が世間に姿を見せた最後の日、俺は彼の家を訪ねた。

彼が寝ていることを願っていたが、実際彼は眠っていた。綺麗な蒼い瞳は閉ざされていて少しだけ寂しかったけれど、同時に安堵した。彼の瞳に自分が映っているのを見たら離れられそうになかったから。

そして俺は別れを告げた。

親父を殺したあの組織を潰すために、漸く見つけたパンドラを壊すために。俺は姿を消さなければいけないから。
だから、寝ている彼に別れを告げた。そしてそっと彼の唇に口付けた。
覚えていないかもしれない。気づいてはいないかもしれない。
それでも俺は最後に彼に逢いたかった。想いを告げたかった。

組織を潰したあと、俺は彼に逢いに行こうと思った。
俺がキッドだと気付かれるかもしれない。それでもいいと思った。

でも、それは出来なかった。

1人で歩く彼に声をかけようと近づいた時、彼の幼馴染が彼を呼んだのだ。
幼馴染に笑いかける彼の姿を見て、俺は足が竦んだ。近づけない。そう思ったのだ。
それから踵をかえして俺は逃げるように彼から遠ざかった。

彼はあの幼馴染と付き合ってるのかもしれない。自分が今更出てきたところで俺は彼に軽蔑されるだけかもしれない。彼に近付きたい。そう思うと同時に彼の瞳に自分の姿が映るのが怖い。
あまりに情けない自分に呆れるが、やはり彼に近付くことが出来なかった。
それに、今だ生き残った組織の人間は俺を探している。そんな状態で彼に近付く事なんてできなかったのに。


友人と一言二言話した後、友人は彼から離れていった。
友人の姿を見送った 彼は小さくため息を吐いて空を見上げていた。




ねぇ、その目には何が映っているの?


俺のこと、忘れた?


俺はずっと君のこと想ってるよ。



「好きだよ。新一…」



届かなくてもいい。それでも、俺は新一が好きだから…。











****











「偽者…だな」

野次馬の群衆の外れ、キッドが現れると予告した場所からは離れたところに俺はいた。
久し振りのキッドの登場に群衆は熱くなっている。ただ、あれはあいつではない。近くで見るまでもない。気配が、空気が、違うと言っている。
警察も恐らく気付いているだろう。あいつの手口とは違うことに、あいつを模倣しただけの偽者だということに。

「はぁ…馬鹿ばかしい。帰ろ」

偽者だとは分かっていた。予告状を見た時点で。
それでも俺がここに来たというのは…あいつに会えると思ったから。

以前自分の偽者が出たとき、あいつは姿を現した。冤罪をかけられそうになったから、というのもあるだろうが、出した覚えもない予告状が出れば気にはなるだろう。

あいつが現れるかもしれない…そんな期待を持ってあいつの偽者が出る度に俺はこうして現場まで足を運んでいる。あいつに逢いたいから。忘れられてるかもしれない。邪魔者でしかなかった目ざわりな探偵のことなんて覚えていないかもしれない。それでも俺は…………。


「あれ?」


ふと人の気配がして辺りを見渡した。
そして目に入ったのは1人の少年…いや、少年というより青年だろう。俺と同じぐらいか?
暗闇に紛れるように姿を上手く消している。


誰だ?


気配も僅かで、姿も見せない。

俺に気づいている…?
いや、気づいてはいないようだ。

しかし、普通の人間がここまで上手く気配を消すことなんてできない。


なら、何者だ?


不意に月を覆っていた雲が晴れた。
光が薄暗かった辺りを照らし、青年の姿も見えるようになった。


「あれは……黒羽、快斗…?」


黒羽快斗。

確か同じ大学、学部は違うようだが食堂は同じ所を使っているから、偶に見かけることがあった。
容姿が似ているとかでよく話しだけは聞いていたが、興味がなかったので特に気にかけてはいなかった。
マジックが得意、頭脳は計り知れないが東都大を次席で入っている。聞いた話では首席であった俺とは大して差はなかったらしい。
軽い性格で男女ともに人気のある学生という噂も聞いた。男も含まれてるというのがまたあれだが。
しかし、明るく、軽い性格とは裏腹にどこか他人とは一線を引いているようだ。と友人たちが話していたのを聞いたこともある。

「でも…なんでそいつがここに?」

しかも気配まで消して。
黒羽の視線の先を追うとそこはあの偽キッドの現場。
鋭い視線でじっと向こうの様子を窺っている。表情はない。冷たい顔で睨みつけていて、まるで憎悪まで浮かんでいるようだった。

俺は黒羽から目が離せなかった。
気付かれるかもしれない。そう思ったが、黒羽が俺に気づいた様子はなかった。気配を隠すことができるのに、俺の視線に気づかないのに違和感がある。

俺は 暫く黒羽の様子を見ていたが、キッドの現場が落ち着いてきたのに気付いて慌てて視線を逸らし、その場を立ち去った。
何故か、黒羽に俺がいたことを気付かれてはいけない気がした。

でも、ただの大学生ではありえない雰囲気。


「一体あいつは何者なんだ…………?」


その問いかけに答えるものは誰もいない。白く輝く月だけが冷たく新一を見下ろしていた。











****












「はぁ………」

目の前に置いた紙コップに入ったコーヒーを見て俺は大きくため息を吐いた。別に紙コップに入ったコーヒーに不満があるわけではないが。
昨夜のあの黒羽快斗がどうしても気になるのだ。

「どうみてもあの様子は…」

『普通』の大学生とは思えない。
一度は組織関連の人物を考えたが、それはないと思う…組織の人間なら俺に気づかないはずがない。

いや、『普通』の大学生でも気配を消すぐらいはできるのか?
出来るとしてもあの場で殺気を押し殺してまであいつは何を見ていた?

『怪盗キッド』の現場。

なら、キッドに恨みでもあるのか?同じマジシャンだから?
…それとも、アレが偽者だと気付いていたから?

ま、俺は黒羽と親しいわけでもないしな。精々顔が似ているといわれるぐらいか?
そんな人間についてあーだこーだと考えても仕方ないよな…


「って、あれ?」


ふとコーヒーから目を離すと近くに想い人…黒羽快斗が座っていた。…や、想い人はないな。

…1人か?

珍しい。

いつもなら一人や二人黒羽のそばに誰かはくっついているのに、珍しいこともあるもんだ。
まぁ、あいつも1人になりたい時ぐらいあるよなー…。

と、ぼんやりと観察していた。もちろん直接見ているとバレそうなので窓の外を見るついでに反射して映った黒羽を見ているだけだが。

珍しく1人で昼飯を食べている黒羽はどこか人を寄せ付けないオーラがあった。取り巻きもそれで近づけないのかもしれない。
こうして見ている限りは普通の学生だ。ただ少し冷たい気はしなくもないが。っていうか、黒羽の席からなら俺の姿が見えてるってことだよな。あんまり見てると流石に気付かれるかも…。

と思ったところで1人の学生が黒羽に近付くのが見えた。

お?何か話してる。

…さっきまであんなに人を寄せ付けない雰囲気出してたのに、あっという間に戻ったな…。
あんなににこやかに話して…まぁそれがあいつの性格らしいけど…

「…ん?」

確かに黒羽は笑顔だ。笑っている。
なのにその笑みに違和感があるような気がする…まるで無理やり仮面を被ったような。
それは自分の本心を見せない顔だ。以前、俺がコナンだった時にしていたように…。

そんな笑顔をしている黒羽にまた少しだけ興味が湧いた。人好きする笑顔を見せる黒羽快斗。それが全てあいつの見せる魔法だとしたら?本当のあいつは一体何を見ているのだろう…。


ってこんなことしてる場合じゃないな。さっさと退散しよう…。

ガタっと席を立つついでにチラッと黒羽を見てみた。やはり浮かべた笑顔は偽物に見える。まさか、いつもそんな風に笑っているのか?

「さてと…」

次の講義までは時間があったはずだから、図書館にでも寄っていこう…。
あ、ついでに高木刑事に借りた資料も読んでおこうかな。











****











2限目の講義が終わって俺はさっさと食堂へ向かった。確か、彼も今日は食堂に来るはずだ。見ることしかできないが、それでも彼に近付きたいのだ。たとえそれが愚かなことだとしても。

「あ」

いた。
いつもの席。いつものように周りに人はいない。
考え事をしているらしい彼の横をスッと通り過ぎると近くに座った。

名探偵が考え事をしている時の目は一際キラキラと輝いているようでドキドキする。まるで俺がキッドだった時にギリギリの駆け引きをしたあの頃に戻ったかのように思うからだ。

そっと彼を見て小さく微笑んだ。
まるでストーカーだ。と思ったが、今更だ。犯罪経歴に窃盗以外にも増えたな…と独り言ちた。


「黒羽!」


1人の男がニコニコと笑いながら近づいてきた。

何だよ。折角彼見つけたのに…。

「…んだよ」

いつもの仮面をかなぐり捨てて男を睨みつけた。が、すぐにいつもの笑顔を無理やり貼り付けた。
流石に俺の機嫌の悪さに気づいたのか男の顔が少し引き攣る。

「あ、いや…あのさ…」
「どうしたんだ?」
「さっきの講義のノート見せてほしいんだけど…」

…。馬鹿馬鹿しさに思わず眉間に皺が寄る。
おっと、危ない。ポーカーフェイスっと…。

「あ…えっと…」
「ノートだろ?ほら。明日返してくれればいいから」

さっさと失せろ。
と内心で呟きながらノートを取り出す。もちろん笑顔を崩すことはない。とは言っても目が笑っていないのか、慌ててノートを受け取ると礼を言って走り去っていった。

「ったく…ってあれ?」

ふと視線を戻すとすでに名探偵は姿を消していた。

「………………」

結局少しの間しか近くにいられなかった。あの男が来なければ…。と恨む気持ちは拭いきれない。

次はいつ姿を見られるか分からない。ひょっとしたらもう二度と見られないかもしれない。
本当はこんな真似しないで話しかければいいのに、臆病な自分がそれを止める。彼に拒絶されるのが怖いから。
彼は俺が近づくことも許されない光だから。

もし、今彼に近付いたら俺自身を止めることは出来ないかもしれない。彼を求める気持ちは今でも抑えることができないのに、少しでも話したらもっと、もっと、と貪欲になっていく気がする。











――……好きだぜ?俺の名探偵…










想いを伝えることは許されなくても、こうして見ていることしか出来なくても、俺はずっと君だけを想ってる。