一人で誰もいない屋上に立って、ぼんやりと月を見上げていた。
今日の獲物もハズレ。冷たい石は月に翳してもなんの変化もなかった。

「どうしたんだよ?キッド」
「いえ…」

驚いた。
誰もいないと思っていたから。いつもなら、人の気配にはすぐに気が付くのに…。

彼だから…か?

「何もないってことはないだろ。お前…俺が来たこと気づいていたか?」
「…………」
「ったく…俺じゃなかったらどうしてたんだよ…」

名探偵は小さくため息を吐いて隣に立った。

「今日もハズレだったのか?」
「えぇ」
「…なら返しといてやる」
「ありがとうございます」

丁寧にハンカチで包んだ石を手渡すとそっとポケットにしまった。

「何があったか知らねぇけどよ…あんま無理すんなよ」
「名探偵…」

ふいっと目をそらしていて目を見ることはないが、その態度には彼なりの気遣いがあるのだろう。

「……ありがとうございます」


彼の好敵手でいられたことを幸福に思う。

彼と出会えたことを神に感謝している。

だから…



こうして隣にいられることの奇跡を…この何にも代えがたいこの時間を…


手放したくないと思うのは…我儘なのだろうか…。



























「空の下で」



























黒羽と知り合って数週間が経った。
俺の中で何かが変わったということはない。それでも、黒羽の存在が自分の中で次第に大きくなっていくことに気づいた。黒羽と話すのは楽しくて、いつの間にか、誰よりも一緒にいる時間が長くなっていた。


それでも…気がかりはある。







机の上に積み上げられた本を見て、俺は小さくため息を吐いた。
たとえ、事件続きで忙しかろうと宿題…レポートは勝手に減ってくれることはないのだ。
溜まりに溜まったものを処分しようと、図書館に来たのはいいが……終わるのだろうか…。まぁ、どちらにせよ終わらせなければならないものなのでさっさと取りかからなければ話にならない。
そう思い、パソコンの電源を入れ、レポートに取りかかった。

一度集中してしまえば、簡単に途切れることはない。もとより、人の気配の少ない図書館は絶好の場所なのだ。
図書室の一番隅にある席。一番気に入っている席だ。暖かい日差しが程良く当たるこの席は目立たない場所にある所為か、あまり人の寄らない場所でもある。だから気に入ってるってこともあったりする。


それから何時間そこにいたのか分からないが、溜っていたものは次第に減っていき、日もいつの間にか傾いている。

残りは明日でいいかな。そう思い始めた時、すっと影が差した。
見上げるとにっこりと笑った黒羽が立っている。

少し首を傾げてじっと見上げると、黒羽が顔を近づけた。

「今、忙しい?」

低い声がそっと耳元で囁いた。
図書館は確かに静かにしなければいけない所だけど、こんなに顔を近づけて話さなければならないことはないだろう…。
と、心の中で呟きつつ、顔が赤くなりそうになるのを必死でこらえた。…それでも黒羽には気づかれていそうだけど…。

「や、もうすぐ終わる所だから…」

少し声が裏返ったかもしれない。人より整っているこの顔が近くにあると心臓に悪い。

「そう?じゃあ…俺待ってるから一緒に帰ろ?」

黒羽の言葉に俺は迷うことなく首を縦に振っていた。
それを見ると黒羽は満足気にほほ笑み、顔を離した。

近くにいるから終わったら呼んでね?

とだけいうと黒羽は本棚の方へ歩いていった。

「……」

まだ心臓の音がうるさい。もう、これでは残りを片付けることもできないだろう。
そっとため息を吐くと、ちらっと窓の外を見た。
高いところにあった日もいつの間にかオレンジ色に染まっていて、少し薄暗くなり始めている。
夕日の眩しさに少し目を細めて、帰り支度を始めた。

「っと…これでいいか」

出してあった本をすべて本棚に戻すと、ぐるっと周りを見渡した。黒羽の姿はない。
仕方がないので天井まで続く本棚の隙間を順に覗いていく、と一番端のところで足が止まった。

「……」

黒羽は夕日に照らされながらもじっと窓の外を見つめて立っていた。どこか冷涼な雰囲気を纏いつつ、真剣な顔つきで外を見ている姿に既視感を覚えた。

「ッ…」
「あれ?工藤、もう終わったの?」

新一の気配に気づいたのか、くるりと振り返るといつもと同じように笑う黒羽がいた。

「どうかした?」
「いや…なんでもない」

心配そうに顔を覗き込む黒羽はいつもと同じだ。俺の知っている黒羽快斗。それでも、たまに見せるアレは誰なんだ?

「ほら、一緒に帰るんだろ?」

まだ心配そうな顔をする黒羽に苦笑して、促す。

黒羽が何者でもいい。なんとなく、知ってはいけないような気がする。知ってしまったら俺達の関係も終わってしまうような気がしたから。

今日はこんなことがあったとか、今日の夕食は一緒に食べようか、など他愛のない話をしているだけで楽しかった。
まだ出会って数週間なのにまるでずっと以前からの友人だったかのような気安さもある。

「あぁ、そういえばさ…」
「工藤!」

ふと黒羽が何かを言いかけた瞬間、鋭い声がそれを遮った。

「は、服部?」

元西の高校生探偵、服部平次。そういえば久しぶりに見る気がする。確か同じ大学に在籍してはいるが、学部が違うためキャンパスも違う。だから頻繁に会うことはない友人。こっちも忙しかったし、あっちもそれなりに忙しいはずだから特に奇妙なことでもないのだが。
それより、何故ここにいるのだろう?

「なんでお前がここに…」
「んなもんどーでもええわ。それよか、こいつ誰や?」

無遠慮に指された指に黒羽の眉間に少し皺が寄ったような気がする。そりゃ誰でもいきなり指を指されればいい気はしないだろう。

「黒羽快斗。俺の友達だけど、なんなんだよいきなり」
「ふぅん…友達かいな」
「で。工藤、こちらさんは?」
「あ、あぁ、服部平次…」
「工藤の親友や!」

ふぅん。と興味なさげに呟いた黒羽はどこか機嫌が悪そうだ。

「それより。何の用だよ」

腕を組んでじとりと睨みつけると服部は少し慌てたように笑った。

「明日土曜やろ?せやから工藤んち泊まらせてや」
「お前自分の家あるだろ」
「せやから、折角久しぶりに会えたんや、積もる話もあるし、ええやろ?」

ちらりと黒羽を見るとさっきよりも機嫌が悪くなっているような気がする。

「……ワリィな。今日は黒羽が泊まりにくることなってっから」
「なんやて」
「事前に連絡してこなかったお前が悪い。ってことでまた今度な」

そう言って黒羽の腕をつかむとさっさと歩きだした。服部は後ろで何かを言ってるようだったが気にしない。

「ワリィな、黒羽」
「全然。それより、俺本当に泊まっていい?」
「あぁ、俺が言いだしたんだし…黒羽がよかったら…な」
「もちろん。…あの服部って人、なんか俺のこと敵対視してない?」
「あぁ…みたいだな。なんでだろ?」

黒羽とは初めて会ったみたいだし、特に何か黒羽が言ったわけでもない。それに、服部は猪突猛進なところはあるけどいきなり他人に喧嘩を吹っ掛けるような奴でもなかったような気がするが…。

「ま、なんとなく理由はわかるけどね…」

ぼそっと黒羽が呟いた言葉は俺の耳に届くことはなかった。










*****










まぁ、たとえ印象が悪すぎても新一の家に行くことも、更に泊まることもできるという結果となったのだからあまり悪い気はしない。
むしろ、新一が自分より前より知り合いなはずの西の探偵より自分の方を取ってくれたのだから、嬉しくないはずがない。

だから俺はかなり上機嫌で新一の隣を歩いていたのだ。
…その時までは。


小さな電子音が新一の方から聞こえてきた。
新一は足を止めて携帯を覗き込み、少し戸惑ったような顔をした。

「どうかした?」
「あ…のさ…」
「…ひょっとして警察から?」

確信はしているが、できれは違ってほしいという願いを込めて聞いてみたが、願いも虚しく新一は小さく頷いた。

「…服部に行かせるから……」
「いいよ。行ってきな」
「え?でも…」
「工藤の方がいいんだろ?それに、鍵貸してもらえるなら夕飯作っておくし」
「いや、悪いって」
「いいって。待ってるから、一緒に飯食おうぜ?」

そう言って笑うと新一は少し困ったような顔をしたが、漸く首を縦に振った。

「わかった。早く帰ってくるからな」

そう言って鍵を渡すと大通りの方へ走って行った。
その姿を小さくなるまで見送るとそっと溜息を吐いた。

…本当は、ずっと一緒にいたかったけれど…

彼を束縛したくないから。『工藤新一』である彼も好きだけど、『名探偵』である彼も好きなのだ。だからどちらかを強制するつもりはない。

掌にある小さな鍵を見つめると小さく笑った。
まぁ、今はこの手の中にある小さな幸せだけで満足なのだから、それでいいか。









「お、お邪魔しまーす」

別に何か盗みにきたわけでもないが、妙に緊張する。実は何度か入ったことのある新一の家。もちろん本人は知らないのだが。
その本人が傍にいないことが更に緊張を増幅させているのだ。

一歩中に入ってみると家の中はしんとしていた。
誰もいないことは知っていたが、ここの主がいないというだけでとても寂しい場所のように感じた。

新一はいつもこの寂しさを感じているのだろうか?

隣に行けば博士やあの少女もいる。だけど、この広い家に一人…。彼は何を思っているのだろう…?

「…さ、飯作りますか」

早く帰ってくると言っていた新一。その言葉を信じてさっさと仕事を終わらせて待っていたいと思った。

家に帰ってきたときに誰かが待っていてくれることは、安心できることだと思ったから…。








手早く作り過ぎた所為か、意外にもあっさりとすることがなくなってしまった。
キュッと水と止めると静寂が襲ってくる。何かしてないと落ち着かない。

ふと、まだ足を踏み入れていないリビングに向かった。
流石にすべての部屋を使っていないこの家で使われている数少ない部屋の一つ。

パチッと明かりを灯すと殺風景な部屋が快斗を出迎えた。

「生活感ねぇな…」

彼らしいといえば彼らしい。必要最低限のものしか置かない主義なのだろうか?この部屋ですらこうなのだから彼の部屋はもっと物が少ないに違いない。

「お。月が出てる」

カーテンを開けると同じく殺風景な庭が広がっていたが、それには目を向けず真っ直ぐ上を見上げた。
満月ではない、少し欠けた月…十六夜だ。躊躇いという意味を持つその月はまるで自分のようだ。
彼に近づきたいと思うのと同時に自分の過去の事を考えてしまう。もし、このしがらみがなかったら自分は迷うことなく彼に手を伸ばしていたと思う。
進もうとしても進めない。この月のように…。

敵で、ライバルで、相容れない存在だった。手の届かないところにいた人だった。
それでも、白い衣装を脱いでしまったら彼の存在はけして手の届かない存在ではなくなっていた。

「俺は…どうしたらいい…?親父……」

小さく問いかける声は静寂にかき消され、白い月だけがただ、ぼんやりと光を放っていた。









ふと、車のブレーキ音と扉の閉まる音が聞こえ新一の気配がした。

「帰ってきた…のか?」

それにしては騒がしい。…誰かと一緒にいる?

不思議に思いながらも新一が帰ってきたのは嬉しくて玄関まで出迎えにいった。

「あれ?」

あ、鍵持ってないのか。
すぐそこまで来ているはずなのに身動き一つしない扉をみて納得した。でもチャイム鳴らせばいいのに…。

そう思いドアノブに手をかけようとした時、外で誰かと口論している新一の声が聞こえた。

「知っとったんなら教えてくれてもええやろ!」
「なんで俺がお前に教える必要があんだよ!」

関西弁…。あぁ、服部平次か。
結局アイツも泊まることになったのだろうか?

胸の中で黒い感情があふれ出しそうになるのを感じて、慌ててそれを隠した。

「せやかて工藤。管轄外やって言っとったやろ?工藤に関係あるんか?」
「協力したことあんだよ。大体、関係ないのはお前の方だろ」
「次はわいも行くでな」
「勝手にしろ。俺は行かねぇから」

これで話しは終わりとばかりに冷たく言い放つ新一の声が聞こえた。
一体なんの話なんだろう?

「工藤、キッドの暗号解かんでええんかいな」

……。え?

「あんなに楽しそうに解いとったやないか、それも興味なくしたでなんか?」
「…何度も言うが、お前には関係ない」
「くどっ…」
「工藤?中入らないの?」

割り込むように扉を開けると新一がびっくりしたような顔をした。

「ごめんね、驚かして。話、まだあるなら中でしたら…って思ってさ」
「いい。もう話しは済んだし…それより、悪いな、黒羽」
「ちょっ…なんでこの男がおるんや!?」
「なんでって、さっき工藤から聞いただろ?もう忘れたの?」
「なんやて!?」
「ねぇ、工藤?服部クンも泊まってくの?」
「いや、こいつが勝手に付いてきただけだぜ。ってことでもう帰れよ服部」

新一は冷たく言い放つとさっさと家の中に入って行った。

「ってことで、じゃあね?服部クン」
「くっ…!覚えとれよっ!」
「はいはい」

軽く手をひらひらと振るとにっこり笑って扉を閉めた。

「本当、ごめんな?黒羽」
「いいって。さ、飯食おうぜ」

申し訳なさそうな顔で見上げる新一の頭を軽く叩いて促した。

不意にさっきまで冷たかった家の中が暖かく感じた。新一が帰ってきたからだろうか…?

「黒羽?どうかしたのか?」
「なんでもないよ」

やっぱり、どこか寂しかったこの家も新一がいるだけで暖かなものになるのだ。
そう思うと心の中まで暖かくなるように感じた。

「そういえばさ、工藤」
「ん?」

聞いていいものか少し悩む。まるで新一を利用するような気がして気が引けるけど…

「さっき、キッドの話してたの?」
「え?」
「ごめんね?ちょっと聞こえちゃって…でも、キッドはもう引退したんだろ?」

そのはずだ。だって俺自身が引退宣言を出したのだから。

「あぁ。でも、この間キッドの現場いたから分かるよな?あの時現れたキッドがまだ捕まっていないらしい」
「そう…なんだ……って、なんで俺があそこにいたって…」
「俺もあの時あそこにいたんだけど、その時黒羽見かけたような気がしたから」

その瞬間、新一の目が『名探偵』の目になった。
全てを見透かされそうになる目。引き込まれそうになるのを必死で耐えて笑みを作った。

「そうなんだ。俺気付かなかった」

なにか、見られただろうか?いや、俺はあの時は何もしていない。
でも、新一のあの視線は一体…?

「それで、捕まらなかったからあの時のあれがキッドだって?」
「断言はできない…けど、その可能性もある。でも俺は…」

――あれはキッドじゃない。

そう口が動くのを確かにみた。俺は思わず目を瞠りそうになったが、気づかないふりをした。

どうしよう。嬉しい…。

思わず笑みがこぼれそうになる。

「そんなことになってたんだ…でも、そんなこと俺が知ってもよかったの?」
「あぁ。多分、この間のあいつはまた予告状を出すだろ。その時に警察もそう発表するつもりだったらしいし」
「そうなんだ…」

白い衣装を脱いだ今、盗聴をする必要もなくなったから警察の情報はほとんど入ってこない。
俺が知らない間にそんなことになっていたなんて…。

「次の予告状が出たら、工藤も行くの?」
「………さぁな」

そういってほほ笑む新一の顔が、どこか寂しそうに見えたのは…。

俺の気のせいだったのだろうか?










「本物だったら…会いたい…けどな」



そう呟いた新一の声は俺の耳にまで届くことなく、かき消された。