「き…」

キッド、と呼ぼうとして止めた。

いつもは自分が来るとすぐに気付くのに、今日は何か考え事をしているように見えたから。

「……」

どうしよう。邪魔したくないし…帰るか?

くるりと踵を返して元来たように帰ろうとした。

「どちらへ行かれるのですか?名探偵」
「…気づいてたのか」
「もちろんです」

ふわりと白いマントが体を包んだ。

「…名探偵」
「………んだよ」
「少しだけ、こうしていていいですか?」

どこか疲れたようなキッドの声に、少しだけ驚いて苦笑した。

「勝手にしろ」
「ありがとうございます」

ぎゅっと強く抱きしめられて、安心した。

「何があったか知らねぇけど…言いたくなったら言えばいいからな」
「…ありがとうございます、名探偵」

ふわふわの髪が当たってくすぐったい、と笑えばキッドも笑っていた。


あぁ、やっぱり…


コイツには笑顔の方が似合うな……。


















「空の下で」


























月が薄らと雲に隠れてぼんやりと頼りなさ気に光を灯していた。

「満月…じゃねぇよな」

月を見て思い出すのはやはり彼の事。
誰よりも月が似合う奴だと思う。その目に宿っていたのは強い意志で、俺の最高の好敵手。

今、彼は何をしているのだろうか?

生きているのなら姿を見せて欲しい。せめて生きているのだと…伝えて欲しい。

「はっ…探偵に言うわけないか…」

敵なのだから。
気まぐれで少し話に付き合ってあげただけの探偵。彼は俺のことなんて忘れているかもしれない。

でも…

俺は忘れない。
気まぐれでも、楽しかったから…。

「キッド……」

せめて、彼が無事で…生きていることだけを……。












「こんばんは。工藤探偵?」

月に向けていた視線を降ろすと白が目に映った。

「……なんのつもりだ?」

スッと目を細めて睨むと相手はただ笑うだけだ。

「いえ、ただ貴方の姿が見えたのでご挨拶を…と」

恭しく頭を下げるのを、ただじっと見ていた。

「…その姿はどういうつもりなのか、と聞いているんだが?偽キッドさん」

風になびく白いマントも、片目にはめられたモノクルも、シルクハットも、まるで彼のようだが…やはり違う。
気配が、何よりも俺の感覚全てがこれはキッドではない、と訴えかけてくる。

「それで化けたつもりか」
「なんのことでしょう?」

そんなことより…と彼とは似ても似つかぬ顔で笑みを浮かべた。

「どうして現場に来てくださらなかったのですか?お待ちしておりましたのに」

嫌な笑みだと思う。
彼なら…本物の怪盗キッドならこんな笑い方はしない。アイツは…いつも不敵で、揺るがない自信を感じさせる笑みを浮かべていた。

「俺がそんなところに行く用なんてないだろ。お前も、用がないならさっさと消えろ」

これ以上その姿で俺の前に立たないで欲しい。
イライラとした気持ちだけが心の中を支配して、更に彼を求める気持ちが強くなる。

「工藤探偵…」

一歩…と偽物が近づいてくる。
思わず後ずさるが、逃げ場なんてない。

「あまり、名探偵を虐めないでいただけますか?」

不意に凛とした声が響き渡る。

「え…?」

突然聞こえた声に俺も、偽物も驚いた。

「キ、ッド…?」

まさか…

だって、彼はもう会わないって…さようなら…って…

「なん…で…」

そう言ったのは誰だっただろう。
まるで俺を守るように、偽物と俺の間に白い怪盗が舞い降りたのだ。

「……お久しぶりです、名探偵」
「キッド…?」
「えぇ。申し訳ございません、私の所為で貴方にご迷惑を…」
「……」

涙が出るかと思った。
キッドの低い声が変わることなく耳に響いて、まるで今までキッドがいなかったのが嘘のようだ。

俺の沈黙をどう捉えたのか、キッドは小さく笑った。
それは自嘲というものだったけれど。

「何故…いや、今は…」

何かをブツブツ呟いている偽物を冷たい目で見遣った。

「キッド、あれは…」
「私とは何の関係もありませんよ」

全てを言うことなく、言おうとしていることを察するところも変わっていない。
思わず懐かしくて笑みがこぼれるが、少し既視感を感じる。

でも、今はそれより…

「じゃあなんで中森警部は捕まえられなかったんだ?」
「さぁ…」

首を傾げるキッドは本当に知らないらしい。なら、現場も近くで見たことはないのだろう。

「遠くから見た限りでは大したことなさそうだったけど…」
「ならば中森警部に何か…」
「そうだな…それか……」

一度思いついた考えに無意識に暗い顔をしてしまったのか、キッドが心配そうに顔を覗き込んできた。

「どうかされましたか?」
「いや…少し思いついたことがあって…」

ひょっとして、この偽物は警察関係の人間じゃないのか?
不審に思われることもなく現場に侵入することが出来て、尚且つ警備網も知ることができる。それにあの人数だ。1人ぐらい減っても気づかない。あとでこっそり戻ればいいだけの話なのだから。

「いつまで、工藤探偵の傍にいるつもりですか?」

漸く正気に戻ったのか、偽物が怒気を孕んだ目でキッドを睨みつけていた。

「どういう意味ですか?」

にっこりと笑ったキッドの顔は少し怖い。本心で笑っているわけではないから…というのもあるが、殺気を隠すことなく笑っているからだ。
そんなキッドに少し偽物はたじろいだようだが、頑張って虚勢を張っているようだ。

「貴方はキッドではない。私が本物の怪盗キッドだ。そして…怪盗キッドに相応しい探偵こそ、工藤探偵だ」

本物ではないものが近づいていい存在ではない。

怪しい輝きを放つ目で妄言を吐く偽物を冷たい視線で見遣った。

「貴方が名探偵に、相応しい…と?」

ガラリとキッドの雰囲気が変わった。

「え…」

笑みを浮かべていた顔には何の感情もなく、ただ声には刺々しい殺気を纏っていた。

この気配…どこかで…。

何度か、キッドが怒ったのをみたことがあった。たとえば、組織の奴らに囲まれた時。無関係の人が巻き込まれた時。
でも、その時の気配とも違う。

どこで感じた?

どこで…

『お前が工藤を手に入れる?


不意に初めて黒羽を言葉を交わした時の事を思い出した。

キッドの目を見ると、あの時の黒羽と同じ目をしてる。


「ま、さか…」


『――…もし…俺が白馬の言うように本物のキッドだったら?』


黒羽が…キッド?


「確かに、私は名探偵に近づいていい存在ではありませんね。怪盗キッドを名乗る限りは」

穏やかな口調は変わらず、ただ空気が、雰囲気だけが冷たい。
金縛りにあったかのように俺も、偽物も、動くことができなかった。

「だから、貴方も…」

…消えてくれますか?

冷たい響きに俺は反射的に叫んだ。

「やめろッ!キッド!!」

恐らく、トランプ銃を取り出そうとしている腕を掴み、動けない偽物に麻酔銃を放った。

「名探偵…」

何故…と視線が問いかけてくる。

「…お前が、人を傷つけるところを…もう見たくねぇんだよ…」
「……気付いたのですか…?」

何を、とは聞かない。

でも、俺は多分気づいてしまった。

「……お前が…キッドなのか…?黒羽…」
「正解、だよ。工藤」

見上げると、キッド…黒羽は笑っていた。…悲しそうに。

「黒、羽…」
「流石だね、工藤。ごめんね?ずっと騙していて」

そっと黒羽の腕を掴んでいた俺の手を外して、冷たい手で俺の頬に触れた。

「……もう、会わないから…」
「え?」
「言ったろ?俺は名探偵に近づいていい存在じゃないんだ」

だから…

「楽しかったぜ、工藤。元気でな…」
「待っ…!」

ふわりと額に口づけを落とし、柔らかく笑った黒羽は、俺の手をすり抜けて姿を消した。

「黒羽!!」


な、んで…。

折角会えたのに…。


どうしてお前は俺の前から消えてしまうんだよ…!










****










その現場に居合わせたのは偶然だった。

「それで化けたつもりか」

いつもの優しい新一の声とは違う、冷たい声だった。

「なんのことでしょう?」

知らない男の声。
誰かを真似た様な…あ、自分か。

こっそりもの陰から見ると、新一は冷たい目でキッドの姿をした奴を睨んでいて、キッドの姿を真似た偽物は笑みを浮かべていた。

…気分が悪い。

「どうして現場に来てくださらなかったのですか?お待ちしておりましたのに」

中森警部が、白馬が捕まえられなかったという偽物。捕まってさえいれば、こうして新一の目にあいつの姿なんて映らなかったのに。
イライラとした気持ちを押さえることはできそうにない。

「俺がそんなところに行く用なんてないだろ。お前も、用がないならさっさと消えろ」

返事をしてあげる必要なんてないのに、その綺麗な目に映してあげる価値もないのに。

「工藤探偵…」

一歩、と偽物が近づく。新一は後ずさった。

その時、俺の中で何かが切れたような音がした。

「あまり、名探偵を虐めないでいただけますか?」

気付いたら二度と着ないと決めていた衣装を身に纏い、新一の前に立っていた。

「キ、ッド…?」

驚いたような新一の声。
あぁ、この姿で会わないって決めていたのに…。

さようなら、って言ったのに…。

「…・・お久しぶりです、名探偵」

本当は今日も、昨日も、会って話した。

…それを言うわけにはいかないけど。


泣きそうだ、と思った。

今すぐにでも新一を抱きしめたい。ここから攫って、自分の正体もバラして…。


でも、それは叶わない。


「キッド、あれは…」
「私とは何の関係もありませんよ」

それでも、今だけは…。

例え一瞬の事であっても、こうして新一と一緒にいられる。キッドとして。

「いつまで、工藤探偵の傍にいるつもりですか?」

小さな幸せに浸っているのに、水を差すような声に機嫌が悪くなる。

「どういう意味ですか?」

一応笑顔は取り繕ってみるが、残念ながら殺気までは隠せそうにない。
キッドの姿をしているだけでも不愉快なのに、更に新一にまで近づこうとする。
これでイライラするな、という方が無理な話だ。

「貴方はキッドではない。私が本物の怪盗キッドだ。そして…怪盗キッドに相応しい探偵こそ、工藤探偵だ」

本物ではないものが近づいていい存在ではない

「貴方が名探偵に、相応しい…と?」


ふざけるな。
お前が新一に相応しい?偽物の怪盗キッドに?

キッドは人を傷つけない。

そんなこと、誰が決めた。

それに、俺はもう…


その時、俺は怒りで頭が真っ白になっていて、新一の気配が変わったことに気づかなかった。


「確かに、私は名探偵に近づいていい存在ではありませんね。怪盗キッドを名乗る限りは」

だから、消えればいいんだ。

俺も、お前も。

新一の前から…。


「やめろッ!キッド!!」

胸ポケットに忍び込ませたトランプ銃を取り出そうと手を挙げると、新一に掴まれた。
そのまま、新一は時計型麻酔銃で偽物を眠らせた。

「名探偵…」

何故、邪魔をしたんだ。

「…お前が、人を傷つけるところを…もう見たくねぇんだよ…」

辛そうな新一の声に、浮かびあがったのは「黒羽快斗」として出会ったあの日の事。

頭に血が上った俺は、新一を「自分のものだ」という通り魔を思いっきり殴った。そういえば、この状況はその時と似通っている。

「…気付いたのですか?」

俺の正体に…。

「……お前が…キッドなのか…?黒羽…」

震える声で、疑うように…でも、確信しているのだと分かった。

「正解、だよ。工藤」


そう笑って言うと、新一は縋るように見上げた。
その目には白い衣装を着て、モノクルを嵌めた俺の姿が映っている。

あぁ、ダメだな。

気付かれたのだから、もう離れなくては。

もう二度と近づかない。

「黒、羽…」

「流石だね、工藤。ごめんね?ずっと騙していて」

そっと俺の腕を掴んでいた新一の手を外して、新一の頬に触れた。

「……もう、会わないから…」
「え?」
「言ったろ?俺は名探偵に近づいていい存在じゃないんだ」

だから…

「楽しかったぜ、工藤。元気でな…」
「待っ…!」

新一の額に口づけ、引き留めようと手を伸ばす新一の手をすると抜けて俺は新一の前から姿を消した。


もう、二度と会わない。












新一と別れた後、俺は一人時計台の前にいた。

「あの時は、楽しかったな」

初めて窮地に立たされて、それでもスリルがあって楽しかった。新一は、あの時の事を覚えているだろうか?

「でも…」

もう、会わない。会えないのだ。

「…これで、よかったんだよな…」

正体を知られて、離れてよかったのかもしれない。

この感情を知られる前に、離れることができたのだから。

「好き、だよ…新一…」

好きな人がいると言っていた。最初から叶わぬ想いだったのだ。




でも…




すっと何かが頬を流れた。

「んだよ…これ」

透明な液体が頬を伝って、止まることなく流れ続けた。





――…叶わなくても、俺は絶対…この想いだけは捨てたりしない。